子どもと一緒に まなびの暮らし

第1子出産後から放送大学で学び始めた平成生まれの2児ママが、子どもと一緒に過ごす日々の発見や気づき・日々の学びなどをつれづれに書くブログです。ちょっとの工夫で子どもにも良い、自分にも良い方法で日々を楽しく暮らせたらなぁと思って過ごしています♪

母子家庭って不幸せ?~私が母子家庭の子どもになるまでとなってから・そしてその後~

母子家庭ってどのぐらいの数があるのか。

自分自身の気持ちを整理する期間が長かったのですが、「母子家庭 子ども」などで検索しても数年前はほとんど「子どもをもつ母子家庭の母親」親目線の記事ばかりだった。

 

ここ数年、母子家庭で育った子どもに対しての記事がネットでも出てくるようになり、今は母子家庭の子どもは厚労省の統計結果によると、平成23年度で123.8万世帯で1人親世帯の約85%、残りの15%である22.3万世帯 が父子家庭とのこと。

平成24年度時点の統計で、子どもがいる世帯の実に6.8%が母子家庭だという。

昭和63年では、約3.4%とのことで、増えているのは確実だ。

 

<参考 厚労省HPより ひとり親家庭等の現状について 平成27年4月20日

https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000083324.pdf

 

母と私の関係の場合(離婚前)

わが家の場合は、親が離婚により母子家庭になった。

それも、中学3年生の頃だったと思う。思春期真っ只中と言えばそうだが、逆に親がどうして離婚するのかなどは理解できる年齢だった。

これが、小学校にも上がらないころ等小さい頃であればまた環境は全然違って、理解の仕方も違ったと思う。

 

私の場合、親がなぜ離婚するのか、関係性がうまく行かない状況を目の前で見ていたので、離婚することには最後には賛成だった。

 

理由としては、「お互い一緒にいることが幸せではないと感じたから。」

 

家では夫婦そろってなんとなくギスギス。そして、時にはケンカ勃発。朝起きたら家の壁に穴があいていた・・・なんてこともあった。ものが飛んでくることもザラ。

でも、外ではそれぞれ感じの良い人で(あ、もちろん素が悪い人というわけではなく、外ではケンカはしないという意味)、おそらくはたから見ればそこまで仲が悪いようには見えていなかったと思う。

一時期は経済的にはある程度生活力はあったものの、次第に経済的にも苦しくなっていった。(夫婦そろって。つまり家計的に。母子家庭になる前から)

 

離婚をする前、何度も母方祖父母も交えて話をした。

母方祖父母は絵に書いたような頑張り屋。古風な人なので、「離婚するよりもお前(=母)がもっとがんばれ」と何度も母を責めたり、がんばるように伝える。

気持ちは全然聞いてもらえない母は怒り狂ったように周りを非難する。

 

子どもながらに親がケンカをしているのを見るのは辛いし、どちらがより好きというより親は好きで、願わくば仲良くいて欲しいと子供は願うものだと思う。

だから、私も幾度となく「もう一回冷静になって話そうよ」と母と父、時には祖父母も交えて離しをした(父方祖父は既に高い。祖母は遠方且つ高齢なのでほとんど直接話はせず)。

母の言動にカッとなって、外に飛び出して車でどこかへ走り去ろうとする父をなんとか止め様と追いかけて危うく車に引かれそうになったことなんて片手では数えられないほどある。

今振り返ってみれば、もっと別の手段で話し合いをさせるなどの方法があっただろうと思うが、そうはいっても多少大人びた中学生であっても、当時の私にできることは、話をしようという場を作るまっすぐな方法ぐらいだった。

 

母と私の関係の場合(離婚後)

結局話し合いは全くうまく行かず、最後は祖父母も根負けし、離婚をすることに。

子ども(私と妹)は母に引き取られた。

母子家庭になってすぐ母方実家の近くへ引っ越した。ただ、引越しと言ってもすぐにはできなくて、先に私と妹だけ夏休みの間に母方実家へ居候させてもらい、2学期から新たな学校へ転校。私は、中学3年の2学期に全く知らないところへ転校し、高校受験をすることになった。

 

少しして母が母方実家近くのアパートを借りたが、離婚した父も当時隣町に住んでおり、離婚しても「私達子どものために」といって関係を修復しようと何度も父に連絡を取る母がいた。時には私達の住むアパートに夜中押しかけてきて大声を上げて警察沙汰になったこともある。

 

今思えば、両親とも高卒で就職をして、2人とも体育会系。言葉で伝える、理解しあうよりも先に手が出る、カッとなるというのが離婚前も後もお互いに多かったように思う。

 

 その時の私は、離婚前からも生活のためには自営業であった母の支援をしなければ、生きていく事ができない状況であり、反抗期なんてしている暇がなかった。

母の言うことは絶対。時に精神的に不安定な母を何度も見てきた。正直逆らうのが、怖い気持ちもあった。本能的に危険を回避するため、自分自身は親に従うしかないと当たり前のように自分の気持ちにふたをしていた。

それおかしいんじゃないか?と一瞬思っても、母親が言うことに絶対的に服従

 

それを繰り返していくうちに、段々と自分の感覚なのか、母親の感覚なのかが分からなくなる。

 

そのうちに母の気持ちや行動は手に取るように分かるようになり、母からは重宝されるようになる。

でも、本音を言えば、あまり嬉しくなかった気持ちもあったと思う。でも、子どもというのは単純で、母親が喜んでくれることは嬉しいのだと感じるものらしい。母親が嫌な事はしたくないというのは幼い頃から本能的に感じる感情なので、無意識の状態下では、その本能に従うしかないというぐらい、母親の言葉に素直に従い、母のやりたいと思う形を実現させるべく動く自分がいた。

 

父に関しては基本的には感情に波はあるものの、ただの良い人。今も普通に良い人で悪い人だとは思っていない。ただ、どうしても生活のために母親寄りではなければならなかったことと母に同調していたため、どんどんと母から見た父像が私の中の価値観として存在していって、「父=悪」ぐらいに思っていた。

 

母と私の関係の場合(中学から高校へ)

その後、中学は何とか卒業し、母方祖父母の経済的支援も有り(ただ、田舎なので離婚・で戻りは歓迎しない雰囲気)、何とか高校へ入学。

家計を支えるためにも、家事は当然のように私がやる。そして、高校へ行きながらも自営業の母を今までどおり(いや、今まで以上に)サポートして動いた。

資料の準備、顧客とのメール、出張先の手配や地図の確認、各種予約、経理など、秘書的な仕事は全てやったと思う。

 

中小企業の社長などと会うことも多いので、失礼に当たらないように学校の朝読書(朝、15分程度読書タイムがあった)の時間には自己啓発本やマナー本等ばかり読んでいた(^^;)めっちゃ実用的な読書タイム!でも、それは生活をしていくために必須なものだと判断したので自分としては必死だった。

 

母の仕事が入れば、平日だろうと学校を休まざるを得なかった。(というか、母を優先して、自分からも休むようにした)

 

勉強は好きだったが、到底大学へ行けるとは思っていなかった。経済的にも、母の仕事のハードさをフォローしなければという立場的にも。

それどころか、高校すら母の仕事を理由に退学しようとして先生に伝えたこともある。

勉強は好きで出ていた授業中はまじめに授業を受けていたので、先生は「高校ぐらいは卒業しておけ。後少しだから」と必死に母を説得し、私も説得してくれた。

当時の自分は「でも、私がやらなければ誰がやるの?母の仕事をサポートしなければ」それしか頭になくて、先生が伝えてくれる言葉に対してもありがたいと思いはしつつも、「学習を続けることは、無理だ」と決め付けていた。

 

祖父母や周りの大人とも色々話した結果、母子寡婦福祉資金という資金を高校2年頃から借りて、当時学年主任の先生がとても親身になってくださって、単位については卒業認定できるギリギリの出席日数を先生が教えてくれ、それぞれの担当先生に自分で状況を話をしに行った。「卒業可能な出席日数ギリギリでもいいから、卒業」することを目指すようにという自分ひとりでは考え付かなかった案を示してくださった。今、思えば、普通絶対ありえない対応。ただただ、感謝。

 

公的機関と祖父母の金銭的支援をもらい、母の仕事を手伝い、時にはバイトをし、何とか卒業を迎えることができた。

母の精神的な病気もあり、自分の都合の悪いことが起きると倒れる、世迷いごとを言うなんていうのは日常茶飯事。おどしのような表現も多々有り、母を1人にして頬って置くことははばかられた。

 

母と私の関係の場合(高校卒業・就職へ)

卒業後はとにかく、経済的に支援するためにも、すぐに就職したくて、採用してくれたところに就職を決めた。

実家から通いながら、新しい仕事もこなし、母が倒れたとなれば看病し、母が動けるときには休日などに母の仕事をし、仕事から帰宅後も家事や仕事をし。。。

めまぐるしい日々だった。

 

そして、今ならそのころの自分に言いたい。

「母の人生なんだから、私がそこまで介入しなくていいじゃないか」

 

 

でも、当時の私はそんなこと微塵も思うこともなく、ただ、「母のためにしなければならない」「母を一人にしてはいけない」「母から離れてはいけない」そう考えていた。

 

就職してしばらく経ってもそれは続いていた。

1年目でも母が体調不良となり、仕事を早退することもしばしば。周りの先輩方に陰口を言われることもあったが、上司が幸いにもとても良い人で、良く話を聞いてくれて、励ましてくれた。

 

1年目の後半、新規事業を任されることなり、毎日遅くまで残業。次第に母の仕事は平日はできなくなり、休日だけになる。通勤に時間がかかっていたので、幸い職員住宅が有り安く借りれたので職場近くで1人暮らしをすることにした。はじめての、一人暮らし。

しかし、そこにも母はついてくる。

よく、私がいないうちに家にいたり、夜な夜な相談と言っては長々話しにきたり泊り込んでいくことはしょっちゅう。

でもそれは居心地が悪い感じはしつつも、Noとは言えない。どんなに疲れていても話を聞かなければいけないと思っていた。全ての最優先事項が母だったのだ。

 

母と私の関係の場合(就職・そして転機)

自分の人生なのか?母の人生の付属なのか分からない日々が過ぎていく中で、仕事関係で現在の主人(あ、もちろん後にも先にも1人ですよ?主人は(笑))に出会った。

たまたま意気投合し、何度か食事に言ったりする中で、母の話になった時、私の感情に始めて剥き合わせてくれた。何度も何度も話していくうちに、長年押さえ続けていた自分の感情に気付かせてくれたのが主人。正直自分でも何の言葉で伝えたらいいのか分からないけれど、辛かった気持ち・悲しかった気持ち・怒りの気持ち・・・たくさんの気持ちを押さえ込んで過ごして来ていた事を主人が気付かせてくれた。・・・というか、私自身から言葉として表面化させてくれた。

でも、離婚している両親、暴力、価値観の押し付けをしてくる男性ばかりが親族にした私には、付き合うとかまして結婚なんて全く考える気にならなかった。というか、感情に蓋をしていた。

 

相変わらず母(母と一緒に住んでいた少し年下の妹も)は1人暮らしの私の家に来るし、相談電話なんて昼休み、残業中など一日に何回も来る生活は続いていたけれど、母は母で不安だったのだと思う。そして、それを話す相手が私しかいなかったんだと思う。それで時間を奪われていく娘のことに配慮するほどの余裕なんてひとかけらもなかったのだと今なら思う・・・が、当時の私は一大決心をする。 

しかし、主人と母を合わせても付き合うことには反対(予想はしてましたが。。。)。

この後が自分自身のものすごい葛藤が始まる。主人と一緒にいるときの心地よさや安心感が良いと思える自分と、母に対して従わなければと思う自分。男性を信じれない自分。どれも自分の強い気持ちが数週間ものすごく葛藤していました。

 

最終的に、清水の舞台から飛び降りるくらいのえいや!という気持ちで私は主人と付き合う道を選んだ。おそらく初めて自分で選びました。(就職もなんだかんだ母の好きなところだったので)

ものすっっっっーーーーーーーーーーーーーごく勇気のいる選択でした。

 

母と私の関係の場合(最近)

そこから徐々に自分自身の人生を歩み始めました。ほんとにちょっとずつ。

時には戻りつつ。

主人との結婚の時もまぁ、いろいろありました。でも、自分自身で選んだこと。親からは本当に一般的な支援(結納とか、祝い金とか)はほぼゼロでしたが、そんなことは気にしません。

自分で何とかすると決めましたから。一応少ないながらも自分で稼いでますから。(母のために給料の大半も使いましたが)

 

自分で選んだ道、そして、自分が安心する道を悩みに悩んで進み始めました。

今はやさしい夫と2人のかわいい子ども達にも恵まれ、高校時代諦めた大学に通い、最初に入った仕事を今は自分の意思で続けています。

 

母子家庭の子どもと言うと、「不幸」って言葉がいつもついて回るようでした。

まぁ、きっと普通の同世代の子達よりは色々あるほうでしょう。

でも、だからといって、私は不幸な人生だったでしょうか?

 

まぁ、不幸的に見ていていた人たちの雰囲気は過去、多々感じてきました。大変だね、とか可愛そうだとか。。。

 

でも、今の私はとっても幸せです!!!

もちろん、大変だった過去はここに書ききれないぐらい(これだけ書いておいてまだあるのか!ですが、笑)あります。

 

でも、それと同じぐらい?それよりちょっと少ないかな?。

母子家庭生活のおかげで身に付いたこともちゃんと有ります。

 

母子家庭に育ったからこそ身に付いたこと

①忍耐力

 何があっても我慢する力。逆境に強いとも言う?

②現状打破力

 何とかして突破することを考える。私の場合は、母の願いをかなえなければで、ものすごい考えたところが土台だと思います。

③日常生活が有り互いと感じる気持ち

 大変な事、辛いこともあったからこそ、当たり前のような日々がありがたいと思うのです。

④コミュニケーション力と人を見る力

 母子家庭だから・・・か、母の仕事のおかげでしょうか。たくさんの人に接する機会があったので、コミュニケーションの上手な人や下手な人、嘘をつく人、だまそうとしてる人などを察知するような力は身に付いたと思います。

⑤生活力、生きていく力

 なんと行ってもこれが一番かもしれません。妻になる前から(正確には小学生の頃から)家事・仕事はやっていましたので、社会に出ても全然困ることは有りませんでした。仕事のやり方はやはり職場のルールは覚えるべきことでは有りましたが、なんとなくの匙加減、暗黙の了解含めそういうものを察知してどう行動したらより自分に有利か見たいなものは考えなくてもできるように(笑)いいのか悪いのか、頑張り屋ではあるようですが、要領良いとこもあるようです(笑)

 

⑥現状・過去の分析をしつつ、自分や状況を客観的に見る事ができるようになった

 自分と親が完全に気持ち的に分離した後ですが、親が当時どういう気持ちであったのか、自分の感情と自分以外の感情(母)に支配された状態の自分という違いを認識したところから、自分自身や状況を”客観的に見る”能力が高まった。今感じている感情が自分の感情か、どういう感情かなどを知る訓練?をすることで身に付いた能力。

 今はイラっとしてもどこか冷静な自分が常に居る(笑)二重人格じゃないですよ。クールダウンが早くなった。

 

私が運が良かったこと

①母も父も私たち子どもを好きで居てくれたこと

 子どもが憎いという人たちではなかった。愛し方は不器用だったけど、(本当に)ス着ていてくれたことは伝わってる。どちらからも。

 

②身内以外で先生等私の話を親身に聞いてくれる人に出会えたこと

 学校や就職先の上司、主人など私の話に耳を傾けてくれる人、私自身の感情に向き合うよう聞いてくれた人、一緒に考えてくれる人がいたこと。本当にありがたいです。

 

③好奇心があることと学ぶことをし続けたこと

 母の仕事関連でたくさんの学びがあったこと、そして、大学等を含め学びが好きなのでいろいろな場面で学ぶ、自分の知らないことに対して積極的に学ぶ姿勢は持ち続けていました。大体どんな時も。だからこそ、自分ひとりで考えても見つからない答えやヒントが見つかって、今に至ることができたと思います。

 

④主人に出会えたこと(のろけ?笑)

 まあ、普通の母とはちょっと違う母も認めて?(否定・気にしない)でくれて、私の話をしっかり聞いてくれた主人。ただただ、感謝です。

 結婚後の働き方、出産後や育児に対しても一緒に話し合って考えて、決められる大切なパートナーです。仲悪い祖父母?と離婚した両親の子の私ですが、主人とは一生涯一緒に居られると思いますし、お互いいるために話合いを常に続けています♪

 

⑤大事な子ども達に出会えたこと

 またどこかで書こうかなぁと思いますが、わが子は2人とも帝王切開です。普通分娩では生まれて来れなかった。今の医療の進歩に感謝ですし、2人の子ども達のおかげで私はまたもっと勉強したいと思うように。子ども達の未来が少しでも明るくよりよいものであるためにと願い、行動しつづけたいと思います。そして、母になったからこそ、自分の母の気持ちも少し理解できるように。偶然ってないのですね、きっと。

 

 

親を見ていて感じたこと・感じていること

①勉強は人生を彩る・生きる力も与えてくれる。・・・ただしやり方次第。

 私の親は勉強は高校生までは苦もなくできた人たちです。でも、父はどちらかと言えば途中から勉強をしなくなった人です。感情コントロールなどはいまだ苦手でしょう。

 母はがんばりやなぐらい勉強熱心。次から次へと新しいことを学ぶ。でも、支離滅裂。本人なりにはやっていると思いますが集大成はドコへやら。

 どのような目標を持ってこの学びをしているのか、具体的にイメージする力などの基礎学力は学び続ける意欲が必要。学び続ける好奇心はいくつになっても必要かなと。

 

②感情コントロールは余裕が大事

 何も余裕がない時に感情コントロールは不可能。母も父も金銭的、精神的に余裕がなかったんでしょうね~。

 大きな余裕はなくて良い。ほんのちょっとの余裕でも良い。余裕があることが心に余力を持たせてくれて、感情が爆発しにくくなる。

 私自身は時間がなくなることによる余裕のなさがパターンとしてあったので、時間に余裕を持った対応をいつも心がけている。

 

③親子の流れは、連鎖する。どこかで断ち切る必要がある。

 親から子への遺伝というか・・・私の両親とも、親に愛されたかった人たちです。でも、愛し方が分からない祖父母だったので、愛されている実感が湧かない。さらに、認められていないと感じている。

 それでも、私は親から愛情をかけてもらいました。(まぁ、大変な事ももらいましたが)そして、私は今子ども達に愛情を持って接すること、言葉でも伝えることを常に大事にしています。それは親を見てきたから。そして、親から子ども(自分)にされて嫌だったことを感じているから。私の子ども達にはそれは決してしたくないと強く思うから。だからこそ、私は変わりますし、常に状況状況で変化しつつも、子どもへの愛情と自己肯定感を高められるような接し方にしたいと思います^^

 

④自分の問題は自分だけでは解決しない

 自分が渦中にいるとき、その問題はなかなか解決しません。自分以外の誰かのためにやっているといつの間にか自分のことも解決していたりします。

 モヤモヤMAX!な時、そんなときは視点を変えて、別の人へのサポートをすることも大事なんだなぁと思います。

 

⑤気持ちを吐き出す、言葉にする、文字にすることって大事

 両親は溜めて溜めて溜めてドカンってする火山の大噴火みたいな怒り方をする人たちでした。良い子なんです(笑)

 ちょっとずつ小出しにして気持ちを吐き出す、そういう人(必ずしも友人でなくてもよい。カウンセラー等もあるし)を作って、ちゃんと自分の気持ちを閉じ込めたままにしないことって大事だと思います。

 言葉にできないなら日記でもなんでも文字にする。

 訓練せずに簡単に客観して切る方法としては、自分の外に出たものを見つめて初めて自分を客観視できるというのがあると思います。(まぁ、感情を掘り下げるのはそれはそれで大変ですけどね・・・。必要であればプロの力を借りるのも手かと)

 

大変な事を大変な事で終わらせたくない。すべて学びに変えましょう♪の精神で、親からももちろん子供からもいろんな事象からも学びます(笑) 

 

・・・なんだかとっても長文になってしまった!

 

でも、母子家庭=不幸ではないこと、幸せの形は自分が決める。そして、人生は気付いたところから変えられるし、どんな人でも幸せになる権利がある。どんな人もとっても価値のある人間であることが伝われれば嬉しいなぁと思います♪

 

今回は母子家庭の子どもの立場からの記録として書きましたが、母子家庭(そうでなくてもすべてのママへも)のママへも伝えたいことがあります。

 

子どもはママが大好き!ママが幸せでいてくれることが子どもにとっても一番幸せです。自分が我慢すれば・・・そんな風に我慢が習慣になっているかもしれない。でも、子どものためにも、ママ自身が幸せになる道を選択してほしい。

大きな変化は最初は難しいかも。小さなことからの積み重ねで未来は確実に代わります。ママの幸せを我慢して、子どものためにとママ自身を犠牲にして欲しくないです。いつもは子どもが好きだから本当はこっちのチョコケーキが好きだけど、一期ショートにする。ではなく、「ママが好きだからチョコケーキ食べるね。」だって良い。

ママ自身の幸せになる選択をそんなこと?ってくらい小さいことからでもいいのでして下さい。

ママが幸せだと、子どもも幸せなんですよ^^(あ、もちろんパパもね♪)

 

・・・といいながら、私も母とのちょうどいい関わり方は目下課題。今はちょっと近すぎた距離感を離す事で自分の感覚を取り戻していますが、願わくば、親子で笑って子ども達の成長や自分の話を話せる日々が来ます様に。そこを目指して目の前の課題を一つずつクリアにしていきます!